100点ではないゴール

こんにちは、anyの城下です。

今日は「100点ではないゴール」について書いていきたいと思います。

私たちは高校生までの間、学校でも塾でも「100点が満点」と教えられて当たり前のようにその基準を受け入れてきました。

しかし、社会に出ると「何が100点なのか」が曖昧になります。急に身の回りが複雑化して正解のない世界に放り投げられます。子供達からしたら、今まではテストで100点取ること、受験で合格することを目標にしてきたのに、急に自分を計る基準がなくなることに戸惑い、どう振る舞う”べき”かに迷うように思います。

実際に、私が大学生の時にそのことを痛感した事件がありました。

一番の成績だった同級生が消えたわけ

私は、電気通信大学という情報通信科しかない単科大学でAIを使った画像解析の研究をしていました。大きい声では言えませんが、電気通信大学というところは他の日本の大学と違い、「入りやすく卒業しにくい大学」と言われています。

実際に私のように多少成績が悪くても入学はできますが、卒業までの道のりは大変険しかったな・・・という印象を今でも持っています。大学一年で必修になっていた実験では、なかなか思うような結果に至らず夜の11時まで半ベソかきながらやったこともありました。

卒業論文のための研究も、締め切り前はほとんど研究室に缶詰、家には風呂に入るためだけに帰っていました。流石に徹夜を続けられるほど体力も集中力もなかったので、仮眠用のエアベッドを仲間でお金を出し合って買ったり、年越しそばを研究室の仲間と食べたのは今となってはいい思い出です。

そんな和気あいあいとした研究室でしたが、ある日事件が起こります。研究仲間の一人が研究室にも大学にも来なくなってしまったのです。学年の中で一番の成績を残している子で教授からもとても期待されていたので、驚きを隠せませんでした。メールを送っても返信はなく、とうとうその子は大学を中退してしまいました。

今まで、ずっと「勝ち組」だったはずの彼に何があったのかはわかりません。しかし一つ言えるのは、今まで彼を「勝ち組」としていた基準が、大学では通用しなかったことが関係しているのでは・・・と感じています。

彼が今どんな生活をしているのか残念ながら知る由もありませんが、きっと人生のリスタートをきってくれていると信じています。

論文作成は受験勉強と違う能力が必要

私自身、高校までを振り返ってみると「答えのある問題」に対して正しい答えやそれを導く公式さえ覚えていれば良いという価値観の中に生きていたと思います。

しかし大学で初めて研究というものに触れ、「今まで無かったものを発見する」能力は受験勉強で培った能力を半分も使わないということに気づかされます。

まず、卒論の研究テーマは自分で決めなければいけません。大学で学んだことが社会とどのように連結しているのか考えをめぐらせるためには、社会に対して問題意識や興味がないといけません。しかし、高校生まで「解のある問題」にしか取り組んで来なかった我々にとって、それは容易いことではありませんでした。

100点ではないゴールを持つこと

この経験は、親という立場・教室を運営する立場として子供の将来を考える中で私にあることを突きつけます。

「解のない問題」や「予定調和でないリアリティ」を知る経験こそが、ロボットやAI時代を生きる子供達に必要なのではないか・・・ということです。そして、「ユーモア」や「自由と選択と責任」といった要素をプログラミング教室の中でも体現していけたらいいなと考える今日この頃です。